明日から、四日の出張とその後も直ぐに七日から出張になりそうなので、今日のうちに上の皆の家と下のアラエビスクラブハウスと二万人対応のボトリング基地予定地の草刈りを、薪割り機械の修理が終わる前にと、予定していたのですが、天の恵みの雨です。

きっと今日ではなく、もう少し後にしなさいという、自然界の神々からのメッセージだと、感じとっております。

blogは、大体一日三百辺りの回覧者数ですが、昨日一昨日は六百も越していました。


僕の弱さが生み出した、様々に同調してしまったのでしょうか。

本当に景子の問題でも、偶々お別れのハグからブチュとされてしまった方の問題でもなく、己の未熟さの問題です。

それなのに、心配されて、景子に謝りたいと昨夜はお電話頂き、本当に僕の不備なので申し訳ない気持ちでいっぱいであります。

もう本当に、大丈夫ですよ。



僕は全てを、ズーット付随意筋が動いてしまう無意識と意識が作り出す随意筋の繋がりが健全にある心の本当のあり方に、着目してきたので全ての起きる現象が、自分事です。

ただまだまだ未熟だから、起きてから学ぶことがとっても多いのです。

出来ればミスを作り出す前に、反転出来ればよいのでしょうが、生まれたころが直線リニアに成長する平面社会へマッシグラだったから、この染み付いた感覚は不器用もあって、本当に手強いほどに染み付いています。

例えば起きてくる様々を外のせいにするは、「それは違うよ」と誰でもわかるのですが、己のせいだと見ていても、見る《場》がそもそも外のせいにする位置から転換されていないのです。

これは本当に、動きから思考を見つめる為に、躍りや武術をやって来て感謝です。

思考のみでは、なかなか理解にたどり着けなかった。

昨日の、魂とは無私の《場》から生み出される愛そのものだったの結論も、僕には快挙の気付きです。



実はFacebookでミウチャンの、ピナバウッシュという今は亡き振り付け家についての記事があって、コメントしたことでの、お互いのやり取りの内容もまさにそれですね。

この二日ほど、借りて観た邦画もフランス映画も、ハリウッド映画もハズレにハズレて、穴から出方が解らないヨーロッパ映画特有の内容や、平面で敵を見つけて無意識の魂を通過しないからこその単純なヒーローハリウッド映画や、平面で意味もなくマトリックスなゲームを続けているような内容の日本映画だったりと、どれもがキアムス構造を知らないが為という、単純だけれども、気付くには程遠い所に肉体思考がたどり着けない理由から起きている結果だと、僕は確信しています。

ピナが振り付けとは、ダンサーへの問いという有名な言葉があります。

僕らは、意味不明な動きを観たとき、簡単に思考停止を装う。

これは、自然界に起きてる異変や、政治や経済や社会全般で起きている平面だからこそ繋げない、矛盾という感覚も、殆どが思考停止を装って、平面での構造内に戻り、感じないようにする。

けれども、無視した無意識は、いずれ悲鳴をあげる。

けれども、世界に秀でて、いずれアカデミックに残る前衛は、動きが全て魂から抽出している。

現実三次元での頭から肚に向かう入力と、自然界の穴(けつ)から胸への入力が捻れに捻れて交差して(キアムス構造)、平面世界に抽出される、振り付け家からも離れて、現実化された、集合無意識なのです。

そのときに思考を停止させるのではなく、一気に場を変える。

魂からの目線で。

だから瞑想は始めは鼻、皮膚、口、耳、目で開眼が起きるけれども、何かが違うのは、そもそも魂から出力されて生まれでたということ。

ならば先に泥沼の暗闇から、見えないからこそ、目、耳、口、皮膚、鼻の順番の時に、カルマは存在しない事になる。

だからスピリチュアルは、依存を創る。

それを逆手にとって、知っていて大きなビジネスにして、経済界からも依存者を作り出して、危ういフアンドになってきている団体も出始めた。

これなら、なんら某教会と代わらない。


上から見るから、ネガテイブに陥る。

真下から、上に拓かれる世界を僕らは見続け、閉じもしないで、そこに平面リニアをドンドン取り込みジャックと豆の木のように、捻れに捻りて、交差さていく。

仕事も生活も祈りも躍りも経済も全てがそうであると感じる。

だからこそミウチャンにヒントを渡した、入力の場の変更に繋がる。

当然平面での目的の為に、上から自分に情報をいれて、結果を出すたび根無しに陥る。

だから今、都会での生活がマトリックスのゲームに感じて来ているのではないかと、思うのですよミウチャン。

都市はリニア平面で良いのですが、そこに参加する我々は、ループキアムス構造で、魂から参加していなくてはならないはず。

そうなると必ず自然界と人は絆を取り戻せる。

飲んでいる水が正しいかどうかは、自然界から飲み手に問いかけてくるものかどうか?

食べているお米が田んぼの風景やそこから遥か先日本中の自然界の荒廃を問いかけてくるものか?

だから、全てが問いかけてくるものに、仕上げて行ったときに、はじめて五感が鍛えられるはず。

今まであらゆる才能豊かな芸術家が様々な分野で試みたものは、全てが多くには伝わっていない。

これは宗教も同じ。

ならばそのすり替えからソロソロ、勇気をもって出始めなくてはならないと、感じるのです。


勿論平面構造だけの、今の政治も経済も生活も違う。

このままでは上から引っ張り出す、アートや宗教が安易に政治や経済と生活と結び付くと、大きな過ちに繋がっていくと、僕は感じます。

依存は、循環をけして創らない。

そして問いかけることが捻れを生む唯一の方法。

魂から、己に問いかけることが愛。

きっとそのようなことを、ジョン・レノンは知りはじめていたのではないかと。

同じく、ピナバウッシュは、気付きはじめていたのではないか。

このように躍りは生まれてくるべきよとの、メッセージに感じている、ピナの作品で一番好きなたしか題名は《船》。

舞台の上には、座礁した船。

そして本物の砂。

そこに救助が来るまでを、描いている。

あるものは、サランラップを巻いてビーチでダイエット。

あるものは、バケツに顔を突っ込んで、息をどれぐらい停められるか挑戦。

夜は、大雨の中でターザンゴッコ。

そして最後は皆でデッキの上で、バーレッスン。

この最後はキリアンの六十以降のダンサーの椅子に座った四人のダンサーが、ヒタスラカウント数えながら、洋服を脱いだり着たり。

これは、生きてから死ぬまでに、数に終われて生きていく今のマトリックスバーチャルを示している。

そして最後は、やはり椅子を円に並べて、バーレッスンでプリエ。

そこはまさに穴の構造を示していた。

そして、体の使い方を上手に学ぶことで、うまく踊りたいって違うよと、僕に突きつけてきた。

そこから一切の随意筋肉と僕は、断絶した。

実はバーレッスンでの先ずはプリエ!は、無意識と意識の狭間での無意識からのドウミ(半分)グランという層の違いでの浮き沈みは、あんたにとって「な〜に」と問いかけられている。

決してアキレスを伸ばすなど意識したら、嘘を踊り始める。

それはバーレッスンずべての内容が問い。

そしてベジャールが気付かれたように、バーの存在も、鏡の存在も、床の存在も全てが問いかけてくるものになったときに、空間を生きれる、世界を踊れるということ。

鏡は横から見るから嘘つき。

バーも平行の棒で垂直の土台を上から意識するから、自我そのもの。

床だけが唯一無意識に通じるけれども、それは床の下の下から自分を見る眼差し。

ヨーロッパならば、歴史のある古い建物でのレッスンは、床が歴史の重みを教えてくれる。

宮島の平家の能楽堂で、プリエをしたら、一体何を問いかけてくるのか。

即興も、この人間界から更に深い自然界の歴史の重みが、下から体を伝わって抽出されなくては、いけない。

その為には、キアムス生活を先ずは実践しないといけない。

有り難う、改めて整理するきっかけを与えてくれた、ミウチャン感謝です。

















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